母なる川 3
東日本の交通体系のなかで、隅田川が江戸湊とともに重要な位置をしめてくる。
しかし、隅田川が本格的に歴史の舞台に登場するのは、1590(天正18)年、徳川家康が江戸城に入って以後のことです。
江戸市街の建設が一段落したとき、明暦の大火(振袖火事)にみまわれ、幕府は、隅田川左岸の本所・深川のまちづくりに着手、両国橋を架ける。
これによって下総国(千葉県)への往来が盛んとなり、両国橋の界隈は、浅草寺境内とならび江戸随一の盛り場に発展します。
川開きの花火や燈籠流し、屋形船の船遊びなど、さまざまなイベントが大衆の心をとらえました。
また、市街地開発によって縦横にはりめぐらされた運河によって、当時、世界一の人口をかかえた大消費都市の経済が支えられました。
文化・文政の頃になると、江戸文化を代表する文人墨客が、隅田川沿岸で活躍し、庶民は、墨堤の桜に興じました。